top of page

記事題目

「朝鮮の布敎」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1917年6月3日

本文

(妙心寺派朝鮮布敎監督として京城出張所に居住する文學士後藤瑞巌の談話)
△鮮人の救済 は在鮮内地人よりも急務であるが頗る至難の事で各宗共今迄随分手古摺つて居ると云ふのは従來の制度から來る弊害で鮮人は其日暮しである財産をつくればとりあげられてしまふ爲めに恒産あるものは一人もない恒産無い彼等には恒心なく真面目に宗敎問題に触れる氣分があない、一方では台湾の天恵なく氣候はあしく地は荒蕉しており自然經済は頗る苦しい、だから宗敎的に救済するよりも經済的に救済する方が急務となる外國宣敎師に鮮人がつくのは宣敎師の物質につくので爲めに現在は六十萬人の信者がある。
△内地人布敎 は各宗競つてやつて居る、信者の多寡、原簿は別として布敎所の多いのは東西本願寺、浄土、曹洞、真言等何れも略ぼ比○して居るが何れも寺の維持に汲々として居る、我妙心寺派は四ヶ所の布敎場しか無いが信者は約五千人に達して居る、拙僧が古川大○○の跡を受けて初めて日曜講座をしたときは聴聞者僅か二人しかなかつたが野田大○、安部無佛両氏の肝煎りで「無門會」と云ふのを始めてから立花師團長、白水參謀長、芳賀博士、森安博士、小笠原農商工部長、久水外○課長なんどお歴々の面々が熱心に參聴されるよふになつて段々張り合いが出來て來た、

bottom of page