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記事題目

「東本願寺と朝鮮布敎」

作者

雑誌名

『敎學報知』

号数等

年月日

1900年9月9

本文

左に掲ぐるは大坂毎日の木浦通信中の一節に属す、多少參考に資すべきあるを認め之を茲に摘録し置くべし。
京都の東本願寺は今度朝鮮における布敎事業に改革を行ひ一大拡張をなす方針を取りたるよしにて之が用向に關し豫て朝鮮地方に評判高き奥村五百なる老女を派遣し老女は去廿參日筑後川丸にて當地を通過し京城に向へりさてその方法を漏れ聞くは従來朝鮮における同寺の各支院(目下京城、仁川、木浦、釜山、元山、甑南浦の六ヶ所にあり)は凡て本山の直轄なりしが今度本山と分離して独立せしめ京城に總支院を置き法主の聯枝勝尊師を任じて統理となし大に寺務を拡張すると同時に多數の留學生を派遣して益將來の計をなすものにて來十月より實行する筈なり云々と、而してこの計畫はもと奥村五百女の考案なるものにて東京における二參縉紳の賛成を得、終に本願寺法主の採用する所となりたりと伝へらる
吾輩は目下一萬五千以上の在韓本邦人中少しく眼識ある者が我朝鮮布敎者を目して如何に評し合へるかは當局本山において大に猛省すべき価値あるものと認めて疑はず茲に至りて又吾輩は彼等支院の僧侶なるものが抑も如何なることを本務となし如何なることを主義とせるやを少しく紹介する所なかるべからず
十年二十年の長日月を消費し之に伴うて少からざる金銭を抛棄し而して得たる所の信徒は唯々掌大居留地内の爺々婆々にしを未だ一人の信者を韓人に得る能はすといふの一語は彼等支院において啻に體裁宜しからざるのみならず抑も亦當局本山に於ても看板に対して世間に合はする面目あらざるべし人氣の区々にして分子の雑駁なる居留地に於て宗敎の必要を感ずること勿論切ならざるにあらずと雖も彼等支院の住職が動もすれば爺々婆々の喜捨を集めて寺院の改築を企て佛像の巨大を圖るに拘らず唯單に爺々婆々に有難がれて得意となり徒に居留地の葬儀に列し本邦人の墓守をなして責を盡せりと信じ口に一句の韓語を知らず目に一時の諺文を弁ぜず一人の知己を韓人社會に有せざるに至りては布敎の真意を打ち棄て支院增設に事業家として熱中狂奔せる者といはざるを得ず事情がくの如きがゆゑに時に往々不品行のために信徒に追ひ払はるゝ等の出來事もなきにあらず、これ吾等の私言にあらず實に一萬五千の同胞人が常に嘔吐を以て非難する所なり
然れども世は灯台の下暗しといへるが如く當局本山においては案外これ等の真相に疎なるものなきを保せず這回本願寺の計畫に就ては勿論十分なる成案ありて後のことなるべけれども布敎も其方法によりては意外なる悪結果を來さゞるに限らざるを以て苟も我宗敎界の朝鮮通ともいふべき本願寺の如きは能くへ前後の事情を顧慮して慎重の態度に出でざる可らざるなり

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