植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮寺院に対する曹洞宗計畫の蹉跌」
作者
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1911年8月22日
本文
朝鮮開敎に關しては各宗派に於て種々苦心畫策せるもの多きが、中にも曹洞宗にては京城に両本山別院を設け、之を中心として各地に敎線を張らんとし、殊に朝鮮の寺院に就て昨年來他宗派に抽ん出て特殊の活動をなさんとて種々計畫しつゝありたるが、之は元一進會に關係ありし同宗出身の故武田範之師在りたる爲め非常を便宜を得たりしものなるも、同師が去六月末逝去せし爲め、其計畫に蹉跌を來すに至れり、今其裏面に就て記さんに昨年日韓合邦成るや、朝鮮十參道に散在する各寺院の代表者八十餘名は京城に於て會合をなし、其將來に就て種々協議をなしたる結果、同地に圓宗々務所を設けて各道寺院の統一を計り、又た僧侶學校を建てゝ僧侶子弟の養成をなすべく、而して之には曹洞宗の援助を仰ぐことゝし其宗務院のごときも曹洞宗務院に範を取り之を組織すべく決定したるが、其裏面には武田師在りて此の畫策をなしたるものなり、而して右代表者の總代として李晦光氏は昨年十月侍者及び通訳を随へて東京に來り、當時の曹洞宗務院總務弘津説參、尚書織田○厳両師と會見し、如上の趣意に依りて將來朝鮮佛敎の開發には曹洞宗の援助を仰ぎ、僧侶學校には同宗より敎師の派遣あるべき事等の秘密契約を締結して歸鮮したり、是に於て曹洞宗務當局にては、同十二月開會の宗議會に於て朝鮮開敎補助費として金貳萬餘圓の支出を決議し、又た朝鮮開敎主管の人選をなして東京芝青松寺前住職北野元峰師を選定せり、然るに武田師は少しく思ふ所ありて合邦後幾何もなく内地に歸來し、一方李晦光氏等計畫の圓宗々務院設立のことは總督府に出願したるも認可せられざる爲め久しく其儘となり居たるが、武田師は其間に在りて窃かに曹洞宗と李氏等一派の間に種々計畫する所あり、既に永○の謀も成らんとし、更に暗中飛躍を試みんとなし居たるに、偶々上皮○に罹り、去參月東京に出でゝ根岸養生院に入り、約二ヶ月間病床に呻吟して終に不歸の客となりたる爲め、茲に其苦心も全く水泡に歸するに至れり、従來曹洞宗と李氏一派との接近せしことは全く武田師在りたる爲めにして、之に依りて曹洞宗も今後大に朝鮮の特殊の活動をなさんと計畫しつゝありたるに、斯く武田師を失ひて今や其等の計畫に大蹉跌を來したれば、同宗務當局に於ても頗ぶる困却し居る次第なり、然れば同宗の朝鮮開敎の方針は、今後多少の変更を免れざるべく、宗務當局者に於ては目下種々考究しつゝありと云ふ。