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記事題目

「朝鮮同胞敎化に 少年團式の訓練を 朝鮮別院で開敎に一指標」

作者

雑誌名

『本願寺新報』

号数等

年月日

1940年5月25日

本文

次に朝鮮別院ならびに開敎のことについてゞあるがこゝ若草町の朝鮮別院は、はじめは京城府龍山(同じ市内)にあつたもので、その歴史は明治參十七八年の日露の役にさかのぼる。戦争當時兵隊についた布敎師が龍山に上陸し、隊付としてこゝに駐屯したことに始る。それ以前明治廿年代に、京城の有力者が京都に行き、西本願寺設立のことを本山に陳情したが、本山にはそれだけの餘裕がなく、これを入れなかつた。で、この有力者は、東本願寺の布敎使をつれて來て、こゝに一寺を建立した。それが今の大派の南山本願寺で、本派は先に附設五十周年をむかへた大派に少々たちをくれた形であつた。が、現在では別院に約參千、龍山本願寺に約千の門徒をもつて、大派の千六百餘に比すれば格段の差がある。が、府民十七萬とすればまだへして多い方ではない。龍山に創設された本願寺は、やがて明治四十二年頃今の若草町の地に移されバラツク立の本堂が建築された。この建築はそのまゝで、最近本格的な建築に着手すべく準備中であつたが事変のため延期となつてゐる龍山の本願寺が若草町に移されたのは、龍山は○大間より○にあつてつまり城外の地にあり、城内の地に移したいといふ考へからであつた。以來朝鮮開敎の本部として、最も○○な役割をもつたのである。
現在別院の活動は、參千の門徒を対象とするその法務が中心であるが敎化部門では、佛青(主任參明氏)少年團(主任參明氏)日校(主任清氏)女子佛青(主任小野島氏)婦人會(主任清氏)勝友會無憂華會などがある。駐在布敎使十二名、冬季は相當寒く、夏は植民地的な氣風からほとんど海岸に移住するやうだから、冬と夏には集りが悪くて日校などは思ふやうに開○が出來ぬといふ。
京城では事変の色がさう感じられないやうである。尤も官吏も警○○ほとんどがアアキ色の○○服を・・・・・・あまり事態を意識してゐないし文學作品や芝居を見てもその内容には戦時らしい影響はほとんどないやうに見られた。朝鮮人と内地人とは生活内容が違ふのだから、無理ないとも思ふが、かうした朝鮮の者への敎化指導は非常に六ヶしいとされ、本部の頭をなやましてゐるところである。
現在半島人相手の布敎所は全鮮に十四ヶ所ばかりあつて、通訳をおいて布敎にあたつてゐる。而してこの開敎につき本願寺の行き方は、新興宗敎のやうな積極性は見られないが、敎線は健實だといはれてゐる。
朝鮮總督府は、日本佛敎關係者の意見を合せよと如何にも日本佛敎に対して冷淡で、むしとキリスト敎に対して好意的だといつてゐる。これは内鮮一體をスローガンにかゝげての施政方針としておかしいと思ふ。府には、中央敎務院といふのがあつてこれが文部省の宗敎局あたりであるが朝鮮人參十一本山を統括し、本山の上の大本山見たやうである。それほど、朝鮮の寺院は力をもつてゐない。おもに曹洞系で京城には、中央佛敎専門學校といふのがあり、朝鮮人のこれら僧侶を養成してゐるがまだへ朝鮮佛敎は振興といふところまで行つてゐない。今まで、ほとんど朝鮮寺院は、支那流に宿屋か料理屋であり小さい○○がいくつもあるといつた具合で、ヤンバン聯中が妓生つれこて乗りこみ、遊興し僧侶はチツプに食つてゐたが、これは最近にいたり固く禁じられた。中央敎務院では、さいへかうした寺院の代表者を招集し朝鮮佛敎の粛正に腐心してゐる。が、官僚的な統制と荒督ばかりで朝鮮佛敎がほんとうに復興されるとは思はれない。代表者の招集會に於て日本佛敎側に今やつてゐるから見に來て下さい程度のあいさつらしいがあまりに考へがなさすぎるのではないかと思はれる。あらゆる印刷物に皇國臣民の○○といふので印刷されてゐる。「我等八紘臣民ナリ、忠誠ヲ以テ君○ニ報セン、我等皇國臣民ハ互ニ○○協力シテ以テ團結ヲ固クセン、我等皇國市民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン」朝鮮ではいゝと分つてゐても、慰問袋の募集や、報國章の○帶など、許してくれないさうである。

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