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植民地朝鮮の日本人宗教者
記事題目
「朝鮮佛敎大會に望む」
作者
下岡政務總監の演説
雑誌名
『中外日報』
号数等
年月日
1924年12月17日
本文
十二月六日朝鮮ホテルで開催した朝鮮佛敎大會役員會席上下岡總監は次の如き希望を披瀝した。
凡そ世の中を治めて行くといふ上に於きましては、素より一方に於ては政治の宜しきを得る必要のあるは勿論でありますが、殊に宗敎の方面に於てよく一般のものを指導し、啓發して行くことの重要なるは、又申すまでもないのであります。由來朝鮮に於きましては、李朝の時代に於ては儒敎といふものを殆んど政治の土台とするといふことをやりました結果でもありますが、割合に佛敎が衰へて居るといふ風に聴いて居りました併しながら佛敎は宗敎其のものとしては自ら潜在力を有つて居たものであるといふことは勿論であるのでありますが、殊に日韓併合以來、政治から考へると、如何に朝鮮の精神界に於て重きをなすべく、又爲さゞるべからざるものであるといふことは、これは私が此處に蝶々せずして、諸君の御承知のことであるのであります。然るに割合に其の方面に於ては力が伸びて居らぬ。従來の惰力のせいでもありませうが、一には、その方面に於て總ての人々が心を一にして進んで行くといふ順序が立つて居らなかつたのでございませうが、割合に其の方面に於けるところの進み方が鈍いやうに見受られて居るのであります。
一方に於ては耶蘇敎、これは却却西洋の文明を輸入し精神的に開發しやうといふので、欧米各國の立派なる人々が、朝鮮の各地に於て、伝道開發に非常な力を竭されて確かに朝鮮の爲めには餘程努力をせられ効果を擧げられて居ると言つて宜敷うございますが、東洋固有の宗敎といふべき佛敎方面に於ては、比較的手が伸びて居らなかつたといふ嫌が無きにも非ずと見受けられるのでありまして、素より朝鮮の土地に關係して居る私共から見れば謂ゆる一視同仁、信仰の自由といふものを認めて居りますから、佛敎でありませうが、耶蘇敎でありませうが、其の他どの宗敎でも、各人の自由に任かしてありますから、どの宗敎が發達しどの宗敎が進歩するといふことに就いて素より敦れをどうするといふことはありませぬが、折角東洋固有の宗敎として、大なる潜勢力を有つて居る佛敎が、朝鮮に於て光を放つことが出來て居たぬといふのは、實に朝鮮の同胞、内地の同胞としても、遺憾に感じて居る次第でございます。
勿論局に當り關係してござつ方は、餘程熱心努力を払はれて居るのでございますから、相當なる進歩、相當なる開發はして居られるに違ひないとは思ふけれども、些か物足らぬ感じがして居つた、佛敎大會茲に見るところがあつて朝鮮の文化を進め、殊に日鮮融和といふ上に於て、實果を擧げて行かうといふ上に於ては、佛敎の興隆、佛敎に於ける感化といふことが、最も重要であるといふことに着眼せられ、この有爲なる方法が非常な熱心さを以て佛敎大會の目的を貫徹する爲めに御努力になつて居ることを仄聞致しまして、私共非常に我が意を得たりといふやうに感じ居つた訳であります。(中略)併しながら、この事業は口では安いけれども、實際は非常に難しい。表面に現はれた物質上の事柄といふことは、割合にしやすいものと思ひますけれど、人の心に立入つて敢行しやうといふ大事業を貫徹するには非常な難關に遭遇するといふことを覺悟して行かなければならぬのでありまして、第一歩を以て滿足するといふやうなことでは、迚も出來ぬものと思ひまするから、どうぞこの事業をして、真に佛敎に依つて、朝鮮に於ける我々同胞の融和及び朝鮮統治の大なる助けも得られるといふことになれば、實にお互ひの仕合せこれに過ぎないことであらうと思ひますから、諸君の双肩に荷はれて居る責任は重大であることを自覺されて、私は將來の御努力を大に望む次第であります。