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記事題目

「朝鮮京城向上會館設立の顛末」

作者

雑誌名

真宗大谷派『宗報』

号数等

大正十一年十月號

年月日

1922年10月

本文

「朝鮮人に聖人のみ敎を伝へねばならぬ」これは我大谷派四百年來の宿願であつた。遡れば天正年間の事、正親町天皇の御宇、顯如上人の御代、織田信長が天下の覇權を握つて居た頃、美濃の國の住人奥村掃部介なる人、深く敎如上人を敬禮し、薙髪して浄信と號した。當時朝鮮征伐の声などが世の中に喧しく伝はり居りしため、渡鮮して自ら報恩の説法を鮮人に試みやうと決心したが、敎如上人も深くその志を感ぜられ、浄信の願を許したまふたのであらう、遂に渡鮮して釜山に海徳寺を創建した。(中略)
明治十年には外務卿寺島宗則、内務卿大久保利通の勧めによつて、我本山は往古の縁に因み、奥村浄信の後裔奥村圓心を朝鮮へ派遣し専ら鮮人同朋の敎化に盡瘁せしめる事となつた一事である。同年十二月には既に大谷本願寺釜山別院として公に活動の一歩を進める事となつた。浄信の渡鮮、圓心の來釜、共にその目的とする處は専ら鮮人敎化そのものであつたと思はる。何となればその頃は共に住民としては鮮人ばかりであつた。若し内地人が居住して居たとしても甚だ少數であつたに相違ない。單に内地人の爲だけであるならば別院を建立する迄の必要は、決してなかつたであらう。それ故筆者は少くともこの二人の渡來はその目的専ら鮮人敎化といふ事にあつたと斷言して憚らない。(中略)その後移住率の增加するにつれて本堂の數も增加し、唯今では五別院一寺院四十一布敎所、即ち四十七ヶ所の要地に於て聖人のみ敎が説かれるやうになつたので、ざつと一ヶ年に一ヶ所づゝのお寺が建つて來た勘定である。
然るに我一派の鮮人敎化といふ大理想は如何程進められたのであらうか。畏くも陛下は「一視同仁」と詔らせられた。政府當路の行政も全くこの一句の中に立脚して居る。我大谷派だけが内地人に厚く鮮人に薄いといふ理由は少しもない。況や宗門に國境なく、み光りに東西の別はない。同じ無碍光の真唯中に住んで居ながら、如何に困難なる情があるにせよ、それを導き、敎へ、覺らしめずに、手を拱いて居る訳には行かない。この焦慮と、希望と、熱涙とを打つて一丸としたる宗門的理想を體現して専ら鮮人に対する敎義宣布の根本機關たる向上會館の建設を企圖し、遂に一大成功を収め得たのが現朝鮮布敎監督兼京城別院輪番渓内弌氏である。勿論本會館は今單に創設されたのみであつて、將來真に民族敎化の大目的を達成する迄には、尚幾多の資金と人材と勞力を要する事は言ふまでもない乍併今はたゞ同氏渾身の力によつて前古未曾有の大機關がこゝに厳然存立するやうになつた一事を記しておけばそれで充分であらう。以下項を改めて向上會館設立顛末を報導しようと思ふ(未完)

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