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記事題目

「朝鮮と大谷派」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1904年5月12日

本文

大谷派本願寺が明治八年の朝鮮開敎着手以來、放資し來りたる財力と勞力は統計上盖し驚くに足るもの有り、去れば韓國王室も同山に対し少なからぬ畏敬を払ひ來ることゝなり、京城別院建築の擧あるを聞くや、皇帝は其内帑より數千金を割きて寄附あらせられたるが如き、同國の事情より見て寧ろ意外の厚意とも称す可く、随ふて大谷派の鼎か如何に韓國にて重大視せられしかを知る可し、去れば由來朝鮮は大谷派の独舞台にして偶々西本願寺なる真宗の別派あるを聞くも彼等は是を想像するに東本願寺の一分派位の感を以てせしに、今や大谷派の無能無力且つ無氣概なる當時局の與ふる千歳一遇の機會を失し、多年下種し來りし功勞の廻散を求めざるのみならず、多大得易からざる薀蓄涵養の勢力を擧げて西本願寺に與へ、利を他人に附して耻を身に塗らんとしつゝ有るに至りては、其馬鹿加減想像の外に在り仮令少々悪事を働いても石川さへ居れば、斯んな耻は掻くまいものと李大使の退洛を觀て感慨せし某在野の有力家は語れり。

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