top of page

記事題目

「平戸に於ける朝鮮僧」

作者

雑誌名

『浄土敎報』

号数等

863

年月日

1909年8月2日

本文

平戸誓願寺に一人の韓僧あり、名を辛寅昊と云ひ韓國慶尚南道通度寺の僧侶にして年齢十九歳、日本語も可なり熟達し、授業も能く了得し、學校に於ても成績最も優等なりと云ふ、韓國屈指の大寺にして、該僧の誓願寺に來りたる原因に就いて住職大島師の談話に拠れば、韓國に於ける國敎は無論佛敎にして其根底長き且深きに拘らず近來基督敎が、或る一種厭ふ可き方法を以て滔々として非常の勢を以て○蔓しつゝあり、之と同時に排日の思想到る處益甚しく、此有様にて進まんか國際の上に於ても真に憂ふ可きものあり、浄土宗は十數年來數多の開敎使を派遣し、布敎伝道に日も亦足らざる有様なるも、宗門の經済にはまた自ら限りあり、寧ろ此際一人も多く韓國人の浄土宗僧侶を養成するに如かずとなし、先きに浄土宗大學を卒業し通度寺學校の敎師をなし居らるゝ永田某なる人の盡力に拠りて呼び寄せ敎養するに至れるものなりと云ふ、而も初めには排日思想盛んなる爲め、通度寺學校々長學監敎授等數名若くは十數名も聯名し百方其召還を逼まり種々恐迫の書面を送る數十通の多きに達したるも、大島師は儼として聴かず、永田師は又彼地に於ゐて種々訓誡説得する所あり、爲めに彼等も漸く浄土宗侶の主意を了納し、今や却つて其好意を喜び感謝しつゝありと云ふ、大島師は尚五六名の韓僧を養成せんと目下其方法計畫中の由なり(佐世保軍港新聞)

bottom of page