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記事題目

「加藤恵証氏の演説筆記」

作者

雑誌名

『京都新報』

号数等

年月日

1893年10月1・3・5.7.9.11・15・19日

本文

私は六月二十二日歸京せり○は何の故ぞと云へば今回開會せられたる亜米利加博覧會へ臨席せんが爲め本山に請願せんとてなり請願したれど遂に許されず却て遽に西伯利亜内地旅行の命下りたるなり(中略)
又た前に立ち戻つて朝鮮に於て税の取り方は如何んと云へば最も甚しく不規則なりと謂ふの外なし決して他國に其の例を見ざる所、何から税を取り何處から納むるか更張り了解する事の出來ぬ是れ真に最暗窟不可思議界と謂はさるを得ず又た朝鮮人には貯蓄心と云ふ事少しも無し明日の事は唯明日の事と思ひ其の日がヤツト済めば宜いと考るのみ誠に彼等朝鮮人は如何にも愚にして如何にも憐れむべき最暗窟の人民なり(記者云ふ是れ朝鮮政府苛税収斂の結果なり)僅か一葦水を隔てたる彼れ朝鮮國の民實に然り豈に是れを対岸の火視して可ならんや我等日本人民たるもの及ぶべき丈け之を救ふ是れ當然の義務と考ふ然らば彼等人民をして如何に救ふべきか唯一あるのみ日本化せしむるにあり如何なる法を以て日本化せしむべきか是れ大に講ずべき問題なれど餘の思考する所を以てせば唯參法のみ云はく日本の医者を派遣するなり、彼の邦人は不思議にも日本の医者に対しては最も多く信用し且つ崇敬せり此の機に投じてドシへ我が医者を内地に派遣せしむべし、云はく日本流の佛敎を伝播せしむる事なり、朝鮮自ら朝鮮の佛敎あり即ち我邦に於て發達せし宗旨を以て感化せしむるにあり、云はく朝鮮語即ちヲンモンなる語を以て充分に彼れ朝鮮人をして日本化せしむる事を得と信するなり餘は此度松村公使より重大なる言伝を齎らして歸朝せり誰れに向てか大谷派本願寺執事渥美契縁氏に向つてなり如何なる意味のものか朝鮮に於ける布敎今の儘にては至つて手ぬるし今後尚一層奮發し給へと勧告するなり然して餘は渥美氏に向つて次の如く掛合はんと欲す貴派にして果して斯の如く行ふべくんば頂上、若し能はずんば當萬有志のもの粉骨碎身、協力以て此の事に従はんとす、然れとも敢て競争せんとするにはあらず、競争は双方に取つて良策にあらず、貴派の布敎撤し去るを待つて徐ろに事を圖らんのみ、と諸君若し大谷派にして朝鮮布敎を當派に一任するあらば諸君の中此の○に當り布敎伝道の爲め大に爲すあらんとする・・・・・・・(ノド切れ)・・・・・○如く該地には古昔より佛敎なる宗派は所々各地に行はれあり、當今は萎靡振はざるにせよ、知らず識らず朝鮮人民には古昔より自ら佛敎思想は薫染せられつゝあるなり、左れば今新しく耶蘇敎を伝播するとは霄壊の差あり、其難易の差幾何ぞや(記者曰く元暁律師の如き大徳ありたり)、嗚呼諸君向後手を下すべき餘地は幾らもあり随ふて後來諸君に対して望を属する事も至大なり諸君法の爲めに宜しく自重自愛する所あれ

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