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記事題目

「京城向上會館の事業及び將來」

作者

向上會館主幹 青森徳英

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1924年6月20・24日

本文

向上會館は真宗大谷派の主唱によつて朝鮮の首都京城の一角に打ち建てられたる鮮人敎化専用の機關ではございますが、あらゆる日本國民の熱烈なる応援によつて、その使命は完成さるべきものなのでござゐます。(中略)
私共は現朝鮮總督が掲げて立つて居らるゝ徳化政治の理想に対して滿腔の敬意と同感とを捧げるものであります。國際間の問題とか民族間の感情とかいふ些々たる小城壁を打ち越えて、たゞ徳を以て向ふといふ國民生活の原理は、ただに朝鮮に於てしかあるべきばかりでなく、あらゆる民族あらゆる國家國民に対する日本國民の態度でなければならぬと確信して居りまするので、私共の仕事も右同様の原理の下に組織され經営されて居るのでござゐます。以下少しくその事業の概要を紹介いたします。
向上會館の事業は、産業、敎育、宗敎の參方面から組立てられてありあます。大正十一年十月開館早々開設せられ爾來一年八ヶ月、その間ほゞ當初の目的に逼ふ事のできたと思ひまするのは産業部の經営でござゐます。朝鮮の社會状態は内地のそれと多少趣を異にして居るのであります。それは國家としても民族としても繁栄の基礎となるべき中産階級が至つて少數なのでござゐまして「富者に非ずんば貧民」と申されて居りまするのは多少妥當な言葉だと存じます、それ故朝鮮を救ふ唯一の道はさしづめ産業的氣運を勃興せしめ而してその實を擧げなければならぬのでござゐます。そこでこの部では洋服と洋靴との両科に別れ、現在洋服科に七十八名洋靴科に二十二名の伝習生が毎地にその技術の習得にいそしんで居ります。
一ヶ年半で一人前の職工になるやうに敎授しますが志願者は卒業後高等科に入つて更にその高等なる技術を研鑽する事もできるやうに仕組まれてあります。この部の特色とする處は學習の時間が短期である事と技術を習ひながら工費の支給を受けらるゝといふ二つの点なのでございまして先月などは一人につき一ヶ月四十圓弱の工賃を受取つた練習生が六七名も出て參つたのでございます。
尚この部の人達には毎朝四十分間づゝ學科を敎授して居ます。即ち全體を四學校に別ち第一學級には修身、國語、算術の參科目、第二、第參學級には以上の外珠算を加へ第四學級には修身、國語、英語、代數、珠算の諸科目を課し一方では將來の勞働者たる全伝習生の品性を高め且又一方では公民として社會に飛び出して常識的にも實用的にもひけをとらないやうにと手配されてあります。これらの人達は學科も實科も共に六ヶ月毎に一學級づゝ進級して參る事になつて居ます。
次に敎育部では今年の四月から向上女子技芸學校を經営して居ります。この學校の目的とする處は卒業後一人前の職業婦人として將又相當見識ある婦人として一家庭に責任を持ち得る婦人に育て上げやうといふのでありまして、二ヶ年卒業の實科高等女學校であります。
御承知でございませぬが、朝鮮民族の半數たる女子は今迄、社會的職業的には何等の事業をも残して居らぬのでございましてかういふ状態では如何に民俗的○○を高めやうとしましてもそれは不可能な事なのであります。
それ故にこの學校では午前中には毎日參時間づゝ學科を敎へます。修身、國語、朝鮮語、英語、算術、家事、圖畫、音樂が學科として課せられ、午後は毎日四時間づゝミシンを中心とした裁縫を敎授して居ます。佛敎主義の女學校としては全鮮唯一のものであり、又女子の職業學校としても全鮮最初の試みでありまする處から、よほどの自重を以て經営されて居ます。
次に宗敎的方面でありますが、便宜上これを感化部と呼んで居ます、この部はまことに自由な精神的結合が基調となつて居ます。相當な家庭の奥さん達約參十名によつて婦人會が組織され、中等學校程度の男子約二十名によつてそれべ會合が催されます。將來児童日曜學校、女子青年會等も生れ出づべき機運を看取する事ができます。
以上を以て大體事業の紹介は終りましたが、會館に毎日々々集つて參ります青年竝に處女は悉くゆたかな天分の持主であります。まことの兄弟として内地人諸君の前に紹介して少しも恥かしからぬ頭脳と禮節を持つて居ます。私は日本國土の一部分たる朝鮮の將來をこれら青年子女に託する事に何等の不安をも感じて居らぬものゝ一人であります。

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