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記事題目

「五千の信徒を率ゐ水雲敎大派に歸属 東本願寺の鮮人敎化遂に實結ぶ」

作者

雑誌名

『中外日報』

号数等

年月日

1937年2月2日

本文

朝鮮人開敎に最も輝かしき過去と古き歴史を有する大谷派は作夏朝鮮人開敎に經験と理解を有する上野開敎監督を迎へ鮮人敎化の大旗幟を掲げ向上會館及び土幕民事業にと一意努力しつつあつたが、今回その涙ぐましい努力に實を結ばれ、水雲敎敎主が五千の信徒を率ゐて東本願寺に歸属したという快ニュースが朝鮮からもたらされた。
大正十二年頃京城に開敎した水雲敎は李象龍氏を敎主に仰ぐ一つの宗敎團體であつたが、次第に敎線を拡張し、昭和四年中南大徳郡炭洞面秋木里、錦屏山の南麓、風光明媚の仙境に數萬坪の土地を買収、廣壮端美なる本殿を新築、水雲敎本部とした。このため十數戸の寒村も忽ち五百數十戸多きに達し、參詣者全鮮より引きも切らず、鮮内に百近き布敎者を有し遠くは大阪にまで支部を持つ事となり十萬近くの信徒を有する一大宗派となつたが、偶々當局よりも熱心に内地佛敎歸属をすすめられ且つ同宗派内にも朝鮮佛敎に行きづまりを感じて内地佛敎研究熱が起こり二回にわたつて大谷派朝鮮布敎使梁正黙氏より佛敎講習會を受けたが内地佛敎殊に真宗の敎義の深遠なるに感じ、衷心より東本願寺に歸属を決意した。また地方各支部に於ける五千の敎徒もかねがね内地佛敎に転向したき意を有したるため此の事を聞き翕然として真宗に歸属することになつた。之がため一月二四日午後一時岩波高等主任及び梁正黙氏の斡旋の下に多數幹部參列し正式に上野監督と李敎主との會見が行われ、李敎主より上野監督に歸属願いを提出。ここに正式に水雲敎は東本願寺に歸属することになつた。その後上野監督一行は岩洞面を訪問、弥陀敎(水雲敎)本殿に參詣、弥陀敎幹部十名を儒城旅館に招して種々懇談會を開き、將來の問題を午前二時まで隔意なき意見の交換をなし、ここに佛敎界否宗敎界に於ける一宗派歸属という大問題は圓滿裡に解決した。因みに李敎主は今年九十四歳なるも矍鑠として壮者をも凌ぐ元氣で、十一歳にして出家し、爾來今日まで或いは山に入り松の實を食し、或いは十日間も絶食して修行した朝鮮僧侶には稀に見る傑出せる高僧で、五千の信徒は師を生佛と拝み、心より師に歸依している。
李敎主ら本山で得度
別項弥陀敎一派の歸属に伴い、李敎主及び幹部一行數十名に朝鮮僧侶養成所修了者九名が加わり一行二十數名は大谷派朝鮮開敎監督上野興仁氏に伴われて、來る六日本山にて行われる得度式に參列、受式する事になつた。尚李敎主一行は、得度後帝都に赴き宮城を遥拝、その足で内地の佛敎を見學、早速歸鮮し、李敎主自ら鮮内各布敎所を廻り歸属の趣意を説き、ますます敎線拡張につとめるはず。
得度は延期、本山敎學部長談
右につき敎學部局では語る。
正式にはまだ何も通知を受けてゐない。書面ではこの件について開敎監督部へも照會しているところです。六日に本山に得度を受けに來られるという事であるが、唯日が切迫してゐるので、手續上庶務課の方でも具合が悪く、得度を延期されたらどうであろうという事になつてゐる。本山としてはその上で慎重に取扱ひを研究することになるわけですが、何にしても結構なことであると思う云々。

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